スピリチュアル的に見る「バチが当たる」って本当?因果応報との違い
「私がこんなに傷ついているのに、あの人は何事もなかったように過ごしている」
そんな場面に出会うと、
「いつかバチが当たるんじゃないの?」
と思ってしまうことがあります。
反対に、
「これをしたらバチが当たりそう」
と不安になることもある。
では、スピリチュアルな視点で見ると、「バチが当たる」という考え方は本当にあるのでしょうか。
今回は、Core&Ray的に見る「バチ」と「因果応報」について書いてみたいと思います。
バチは本当に当たるの?
結論を先に書くとCore&Ray的には、神様が誰かを裁いて罰を与えるような意味での「バチ」はないです。
けれど、生き方や考え方が、その人自身の体に少しずつ表れていきます。
だから、
「バチは当たる」
「バチは当たらない」
というよりも、
「自分が生み出したものは、自分に返ってくる」
それをCore&Ray的には「バチ」に当たるのかな?
バチと因果応報は違うもの?
一般的には、
「バチ」は神様や見えない存在から与えられる罰、
「因果応報」は自分の行いや考え方の結果が返ってくること、
という違いで語られることがあります。
けれどCore&Ray的には、この二つをそれほど別のものだとは感じていません。
どちらも結局は、自分が生み出したものが自分に返ってくるという話だからです。
なので、
「神様が罰を与える」
というよりも、
「自分の在り方が人生に現れている」
なんですよね。
なぜ「あの人にはバチが当たらない」と感じるのか
私たちは、誰かに傷つけられたり理不尽な思いをした時、
「こんなことをしているのだから、何んらかの報いがあってほしい」
と思うことがあります。
でも、その出来事をどう受け取るかは人によって違うんです。
周りから見れば問題に見える行動でも、本人は何も問題だと思っていないことってよくある話。
だから私たちが期待する形で「罰」が見えるとは限らないんですよね。
むしろ、人の人生は外から見える一部分だけでは分からないもの。
その人が何を感じ、どんな思いで日々を過ごしているのかは実際は本人にしか分からないんです。
だから、
「あの人にバチが当たるか」
を考えるより、
「自分はこの出来事をどう受け取るのか」
を見る方が大切なんです。
これは自分の人生を変える視点になります。
生き方は少しずつ人生に現れていく
私はCore&Rayを知ってから人を観察するのが好きです。
その中で感じるのは、その人の考え方や習慣、人との関わり方や生き方は少しずつ体に表れてくるということです。
もちろん、それを良い・悪いで言っているのではないです。
ただ、自分がどんな思いを持ち、どんな行動を積み重ねているのかは、少しずつ体と人生に反映されているんです。
だから因果応報というのは、
どこか遠くから突然やってくる罰ではありません。
今の身体。
今の人間関係。
今の暮らし。
そうした形ですでに現れているものなんです。
本当に見つめたいのは相手ではなく自分自身
そして私が一番伝えたいのはここ。
誰かに傷つけられた時、
「バチが当たってほしい」
と思う気持ちは自然だと思います。
私もそう感じたことがたくさんあります。
でも、その怒りや恨みを抱え続ける。
その重さを持ち続けるのは自分自身なんですよね。
相手が苦しいのではなく、自分が苦しくなる。
相手に何が起きるかは分かりません。
けれど、自分の心がその出来事に縛られていることには気づけます。
だから私は、
「相手に何が返るのか」
よりも、
「この出来事によって、自分は自分を見失っていないか」
が自分の人生を生きられる一歩だと思います。
おわりに
バチが当たるかどうか。
因果応報はあるのか。
その答えは人によって違うのかもしれません。
ただ私がCore&Ray的に言えるのは、
人の人生を変えることはできない、でも自分の人生を変える事は出来るということです。
いえ、自分の人生しか変えられないんですよ。
それを身に染みて感じてるから言えることもある。
その時間勿体無いから、自分に使って。ってね。
自分の人生がより良くなりたいために一生懸命頑張ってる。
- 自分の人生をより良くしたい。
- 幸せになりたい。
- 大切な人を守りたい。
そんな思いがあるからこそ、怒りや悲しさが出てくることもある。
そういう人のために贈りたい言葉。
もし今、誰かへの怒りや悲しさを抱えているなら、相手の行動だけではなく、自分の内側にも少し目を向けてみてください。
そこには、自分自身を知るためのヒントがいっぱい隠れていますよ。
Core&Ray的に言うと
「今、自分が何を書いているのか」
を知るためのヒントです。
ここでいう「書く」とは、
自分の考え方や生き方が、どんな現実として現れているのかを見ること。
そんな意味です。

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